~いつかは来るお別れの時 エンディングノートという父からの最後の贈り物~
~いつかは来るお別れの時エンディングノートという父からの最後のプレゼント~
こんにちは。
都内に住む50代の専業主婦です。
ようやく朝晩の冷え込みに秋を感じるようになりましたね。
今夏は連日の猛暑でエアコンなしには眠れない日々でしたし、10月も夏日で寝苦しい夜もありましたから、私的にはもう体力の限界でした。
もともとは私、物悲しい秋はちょっぴり苦手で。
加えて昨年の秋にはとても悲しい体験をしましたので今年は秋の訪れを拒む気持ちの方が大きかったはずなのですが……
夏はもうお腹いっぱい!
ひんやりとした空気に心地良さをおぼえます。
さて、今回は先にも記しました昨年の悲しい出来事。
それは【父の死】なのですが、最後の最後に父の偉大さを感じた終活の様子、残されたエンディングノートに纏わる諸々のことをお話ししたいと思います。
- ⭐わたしたち家族のこと
- ⭐エンディングノートを書くことになったきっかけ
- ⭐最初にはじめたこと
- ⭐エンディングノートを書き始めると頭の中が整理されてくる
- ⭐書きたいことは山ほどある
- ⭐近付いてきた別れの時
- ⭐余命を宣告されて
- ⭐配慮の一筆
- ⭐残りの時間
- ⭐最期の時
- ⭐父からの最後の贈り物
- ⭐最後に
⭐わたしたち家族のこと
我が家は3世代5人家族で
昨年の秋まで、80代後半で不治の病にかかってはいたけれど、頭は家族の誰よりもしっかりしていた実父と
お勉強はからっきしダメだけど元気いっぱい部活三昧の男子高校生の息子、
おとなしくて真面目な家族思いの女子中学生、
穏やかな気質で婿養子になってくれただけでも有り難いのに、家事から父の相手、身の周りの世話まで、嫌な顔一つせずやってくれる40代の夫、
そして週に3回ほどパート勤めをしている平凡な主婦の私。
同居して20年、実の父とはいえ色々な衝突がありましたが、基本的には仲の良いファミリーで、子供たちの成長を楽しみに平和な日々をおくっていました。
80代にしてスポーツを趣味とし向学心旺盛な父は、海外の親戚の家を転々としては観光ということばでは収まらないほどの視察?研究?旅行をし、心臓の持病を抱えながらも臆することなくどんどん新しい世界に飛び込んでいきました。
専業主婦である私が、健康面を食事や身の周りの世話でフォローしていけば、きっと100歳まで生きられるのではないかと思うほどエネルギッシュな人だったのです。
⭐エンディングノートを書くことになったきっかけ
そんな父は数年前のある朝、腰痛を訴えベッドから起き上がることができなくなりました。
急遽、整形外科に連れていくと椎間板ヘルニアとの診断。
神経ブロックの痛み止めの注射を打ってとりあえずはやり過ごすしかないとのこと。
ですが、幸いにして3、4回注射を打ったらすっかり良くなり以前と同様歩くことも問題なし、趣味のゴルフも再開できるようになったのです。
今まで心臓の持病で手術などを経験していた父も、ある日突然歩けなくなった、という事実が相当ショックだったようです。
椎間板ヘルニアでは命を落とすことはありませんが、不測の事態に備えて、と、これを機に心配性な父のエンディングノート作りがはじまりました。
⭐最初にはじめたこと
エンディングノート、といっても本屋で売っているような立派なものでなく、大学ノートに自身のことをただ纏めて書いたようなものでしたが、父が亡くなった後、相続などの手続きの際にはとても助かりましたし、今となっては父の直筆のノートは思い出の品となり宝物になりました。
その宝物になったエンディングノートに父が最初に記したのは財産目録でした。
自分が死んだ後、お金に関する大切なことがわからないままにならないよう目録を作ったのです。
自宅の土地が何平米で、その路線価格はいくら、土地と建物の評価額はいくら、どの金融機関に今現在どのくらいの預金があるのか、そして株式取引の状況。
ネットでの株取引やインターネットバンキングなどのIDやパスワードを一覧表に。
見開いたページすべてが几帳面な小さな字でびっしり書かれていて、「こんなにも記しておかなければいけないものがあるのか~」とその時、娘の私は呑気なものでした。
⭐エンディングノートを書き始めると頭の中が整理されてくる
ヘルニアから2か月くらい経った頃、私は父に連れられ?取引している銀行に行きました。
まだ一人で外出するのが怖かったのか、お供を命じられたので「運転手兼鞄持ち」のつもりで何も考えずについて行ったのです。
唐突に父が窓口の女性に「お宅との取引を解約したい」と言ったので事前に詳しく話を聞いていなかった私はびっくりしました。
4つある銀行口座のうち、1つを解約して現金を全部持ち帰るというのです。
一番大口の口座でしたので「現金で持ち帰るなんて怖いなぁ~」と思いながらも、父にも考えることがあるのだろうと横で携帯電話をいじりながら軽く話を流しながら聞いていると、
「お連れの方はお嬢様ですか?」
と女性の声。
どうやらその窓口の女性は、
私がアカの他人で、年寄りを騙して現金を引き出させているのではないか、と疑っているようでした。
状況を理解した私は女性に
「病気をして先行きが不安になった父が銀行口座の整理をしようとしているのでここに来ました。」
と説明をしました。
それでも「最近は詐欺が多く、高齢の方が銀行に来て大金をおろした時には、警察に連絡をしてパトカーで家まで送り届けるか、自家用車の場合は警護する」ということになっているのだと言います。
ヘルニアで少し弱っているけれど、頭のしっかりしている父は
「俺の金を俺が自分で持ち帰って何が悪いんだ!」
と語気を強め、結局は疑われながらも親子で無事に帰宅したのでした。
そしてそのお金の使い道を聞くと、
「生前贈与をするので、贈与の書類を作って現金で子供、孫、そして私のいとこたちに渡す、残りはタンス預金だ。」
と言っていました。
相続税法も変わったことですし、「自分の死後、子供たちが少しでも節税ができるように」と、エンディングノートをつけはじめてから色々と考え、このようなことをするに至ったようでした。
⭐書きたいことは山ほどある
父はエンディングノートを書き始めてから毎日のようにそのノートとにらめっこ。
財産目録の他にも家系図、親戚の連絡先一覧、住宅設備の点検&交換の記録、自分の病歴や職歴、自分の生まれた場所や転居の記録。希望する葬儀のかたち。
そして遺言の下書きや相続税の計算方法、自分の死後の預貯金の請求の仕方、そのために必要な自分の生まれたところにまで遡った戸籍の取り寄せ方。
とにかくエンディングノートを書きながらどんどんと書きたいことが増え、ノートを書くことが日課のようになっていきました。
終活なのになぜか父は嬉々としていたのをよく覚えています。
⭐近付いてきた別れの時
エンディングノートをつけはじめて3年ほど経ったある日。
父が体力の衰えを感じたのか、もうゴルフはやめる、と言い出しました。
ゴルフをしたあとはぐったりするほど疲れて一度横になると起きられない、というのです。
起きているときはいつも背筋を伸ばしてシャンとしている人でしたので、私が見ている中ではそんなに疲れているようには見えませんでした。
でもある日、父の様子を見に部屋を覗いたとき、父がデスクに寄りかかってつらそうにしている姿を見てしまったのです。
熱を測ってみると39度。
あわてて夜間救急に連れていき、検査をすると肺炎であることがわかりました。
高齢なので急変することを心配し、即入院。
その後の血液検査で、肺炎の原因はある不治の病であることがわかったのです。
⭐余命を宣告されて
一昔前と違って、医師は病名や病状を本人に正確に伝えます。
父もハッキリと余命は1年半だと宣告されました。
高齢ですべてのことに達観しているのか?
余命を聞いてもショックを受けているような様子は全くありませんでした。
いつも通りに昼食をとり、いつも通りに株価のチェック、いつも通りに読書をし、鼻唄を歌いながら部屋の片付けをしている父。
亡くなった今となっては、それはきっと動揺を見せないことが父の美学であり私たちに対する優しさだったのだと思います。
でもエンディングノートはそこからまた現実的なものとなって少しずつ書き加えられていくのでした。
⭐配慮の一筆
余命を宣告されてからまず書き加えられたのは、
「これからのすべての判断は長女○○に任せる」
という一筆。日付と署名と共に。
一番近くで見ていた私が、父の死後に様々な兄妹間トラブルに巻き込まれないように、という配慮だったのだと思います。
そして、本人が取り寄せるのは簡単ですが、家族だと取り寄せる手続きをするにも相続人全員の、何枚もの書類の準備が必要な戸籍をすぐに取り寄せたのです。
そして封筒にいれて、エンディングノートに挟んでいました。
⭐残りの時間
それからの父は、浦島太郎が玉手箱を開けたとたんおじいさんになったかのように老けました。
もともと80代にして70そこそこにしか見えなかった父なので、年相応になったのだと思いますが、急激な変化に家族全員が驚きました。
しかし、見た目とは違って精神的には変わらず逞しく、体調が悪くても弱音を吐かない力強い姿に、私たちも目の前でメソメソ泣くことは許されず、いつもと変わらない毎日をおくることを決めました。
この世に生を受けたものはいつか必ず死に行くのです。
父は自分らしく、自然な形で枯れていくことを望んでいました。
なので、何をしても助からない、と言わば医者に匙を投げられた状態になった時は、胃ろうも点滴も心臓マッサージも行わないと家族で話し合い決めました。
⭐最期の時
余命を宣告されてからも父はとても元気でした。
筋力は衰えてもできるだけ自分の身の回りことは自分で管理し、そして父が行きたいというところは家族全員がフォローして、できるだけ連れていきました。
飛行機に乗って旅行もしました。
少しずつ歩ける距離が短くなり、歩く速度が遅くなり、できることが減っていきましたがそれでも生をあきらめず、少しでも長く、少しでも自然に、と日々強い気持ちで生きていたのです。
ある日高熱が出たので受診をするとそのまま入院することに。
まだ回復して家に戻れるだろう、と思っていたのですが結局はどんどん悪くなり一度だけ外泊ができましたが、最後は病院で亡くなりました。
最後の入院期間は2週間ほど。
そのうち最後の2日間はトイレに立つのもやっとでしたが、それまでは筋力を落とさないために、と病院の廊下を行ったり来たり何度も往復していました。
亡くなる直前も家族と会話をし、私の夫には
「色々とありがとうございました。
あなたのおかげでみんなが無事、ここまでやってこれました」
と朦朧としながらもベッドから椅子に移り、そう言って頭を下げたそうです。
少し離れたところから見ていた私は、夫の目が赤くなっていたのでどうしたのかな?と思っていたのですが
父はきちんと婿養子になってくれた夫にそう感謝の言葉を述べて2日後に亡くなりました。
⭐父からの最後の贈り物
父がなくなったあとはしばらくは家族全員が深い悲しみに途方に暮れていました。
エネルギッシュで、現役を退いてからも一家の大事を決めるのは父。父は我が家の大黒柱でした。
夫は父を尊敬、その性格をよくわかってくれていて、いつも父のフォローに回ってくれていたので3世代の同居でも問題なくやってこれたのです。
その父の死後、家の中は火が消えたようで、いつもの我が家なのにしっくり来ない……
病院から引き上げてきた荷物の中にエンディングノートがあったのを思い出し、みんなでそのノートを開きました。
数年前に書き始めたエンディングノートは30ページほどのものでしたが、20ページほどは先にも書いた通りびっしりと埋め尽くされていたのです。
そして何より驚いたのは
最後の数ページは家族一人一人にあてた手紙形式になっていたことです。
ノートの裏表紙には
Take care!
Do your best.
と崩れた力のない文字で書かれていて、本当に最後の時に書いたのだろうと思うと涙がとまらなくなりました。
このノートのおかげで、相続の事務的なことがスムーズにいったことはもちろん、終活という立派な人生の幕の引き方を目の前で見せてくれた父は、本当に偉大だと思ったのでした。
⭐最後に
少しずつ日常に父がいないことに慣れてきましたが、まだふとした時にそこに父がいるかのような感覚に陥り、そして現実に引き戻されると涙が溢れることもたくさんあります。
私もよい大人ですが
「あぁ、私は両親がいないんだなぁ」
と思うとまるで孤児になったかのような気持ちです。
しかし、父のメッセージを受けて、私たちは自分の生をまっすぐに見つめて前に進んでいかなければなりません。
そして私たち夫婦もいつかは必ず来る人生の終わりに向けて、父をお手本にし、あまり心配しすぎず、終活の準備をしていきたいと思います。
私たち夫婦から愛して止まない子供たちへ、立派な最後の贈り物になるように……